印鑑一筋64年。白髭バンダナの職人さんは風のような人だった。

かつて結婚して身を固める際に実印・銀行印・認印の三本を揃える、あるいはこれらを贈るという風習があった。印鑑は社会に認められた証であり、同時に自分を証明する大切なツールである。会社員であれば担当者、課長、部長の印鑑が押された見積書や書類の山を日常的に目にしているだろうが、私生活において印鑑を押す機会は圧倒的に少なくなったような気がする。
銀行で出金や振込をする時はカードで済むし、ちょっとした契約は身分証さえあれば済むようになっている。それでも日本には印鑑登録制度が依然として残っており、車の車庫証明やら不動産登記やら遺産相続などでは本人を証明するために印鑑が必要である。

やはり日本人には必要不可欠なツールとしてこれからも残るであろう印鑑、その印鑑づくりを64年という長きに渡って続けている職人さんがいるという話を耳にし、取材に伺った。

都営三田線新板橋駅から徒歩8分ほど、中山道の喧噪も感じない住宅街の路地に「はんこアート宮川印店」の小さな看板が見えてくる。玄関のチャイムを押すと出迎えてくれたのは宮川政治さん(79歳)だ。白髪に白い顎髭、そして額に巻いたバンダナがトレードマーク、小柄な体躯ながらお年を感じさせないほど背筋がまっすぐだ。
「ああ、ようこそ。お待ちしてました。ご苦労様です」と笑顔を絶やさず頭を下げる宮川さん。玄関先にはスタッフの人数分ご用意頂いたお土産が置かれている。「これ、帰りに持っていってね」と。
こちらが恐縮してしまう。
早速二階の仕事場に上がらせて頂きお話を伺うことに。6帖程の部屋は作業用の机、ノートパソコン、そして4台の印章彫刻機が置かれてる。

「まずこの機械で彫ったものをこうやって手彫りで仕上げるんです」独立した時から使っているという作業机に正座し彫刻刀で仕上げの工程に掛かる宮川さん。正座した作業中の姿勢もまた背筋がまっすぐで美しさすら感じる。宮川さんが向かう作業机は角が丸くなり磨き込まれたようにつやつやと輝いている。「いいものはね、保つんですよ。昔のものはみんな長持ちしたね」と、64年間愛用している机を見やり目を細める宮川さん。

宮川さんは昭和14年(1939年)愛知県刈谷市生まれ。15の年で愛知県碧南市の「藤井印房」に弟子入りしハンコ彫刻の道に入った。

「叔父がやってた仕事でね。子供がいなかった叔父は僕に店を継がせるつもりで弟子入りさせたんですよ。そこは母方の実家でおばあさんがいるわけですよ。で、畑仕事やら何やらさせられたり。それで家出同然に東京に出てきちゃったわけ」笑いながら当時を語る宮川さん。

上京した宮川さんは足立区の「泰文堂」でハンコ修行を続け昭和36年21歳で独立する。

宮川さんは「印鑑・板橋区で来訪25分仕上げ」というキャッチコピーで印鑑を作り続けている。このスタイルは独立当時からのものだそうで、当時は新聞に二行広告を掲載し『早さ』を売りにしたという。

「とにかく忙しかったですよ。手彫りは一日3本ぐらいしか仕上げられないからね。それでも独立したばかりの頃はまだまだ貧しくってね。毎日同じ定食屋さんでご飯を食べるんだけどね、今の定食より高いあの定食が食べられるように、って思ったりね。それからビールが飲めるようになったら結婚しようとか考えてね頑張りましたよ」

やがて最愛の奥様と結婚された宮川さん。奥様の話をする時はいっそう目を細めて「やっぱり幸せでしたよ。奥さんと結婚できて、家庭を築いて。実は奥さんは歌手でね」と1枚のCDを手渡してくれる。数年前に他界された宮川さんの奥様は「宮竜子」の名で演歌歌手として活躍されていたそうだ。

「まあ、一人になっちゃったけど子供も近くに住んでるしね」と鼻を啜りながら笑顔を見せる宮川さん。ここで、この仕事をしていて一番嬉しかったことを聞いてみると…

「古いお客さんにね、偶然会ったりしてね『ああ、あの時は間に合って本当に助かった』って言われた時とかね。それと、こんなこともあったな…泥棒に入られちゃって家財なくしちゃったお客さんが印鑑を頼みにきたことがあってね『今はお金がなくてどうしても支払えないから、出世して必ず払うから…』って何度も頭を下げるわけ、僕はこのハンコで人生やり直して幸せになってくれればそれでいいからって渡したんだよね…」きっとそのお客様も宮川さんの言葉に涙を流して喜んだに違いない。話してくれた宮川さんもその事を思い出してか涙を浮かべて泣き笑いしていた。

「一つの仕事をやり続けて64年、こんなに幸せなことはないですよ。ちょっと生意気な言い方だけどね、いろんなお客さんの人生に、僕が彫ったハンコがいつも寄り添ってる。ずっと使ってくれてるって思うとね、もう冥利に尽きますよ」

本当に爽やかな笑顔でそう言いきってくれた宮川さん。いえいえ全然生意気じゃないです。奢ってないですよ。大変失礼ながらそのお年でネットで注文を請けて一本一本に使う人の人生や幸せを思い浮かべながら心を込めてハンコを彫ってくれる職人さんなんて日本広しと言えど宮川さんぐらいです。

取材を終えてお店の玄関先に立つ宮川さんを撮影させてもらった。その満面の笑顔に涼やかな風を感じた。

はんこアート宮川印店 宮川政治さん

〒173−0004 東京都板橋区板橋4-19-8

会社名/名称 はんこアート宮川印店
ご紹介期間 2019/01/01 ~
こちらのお仕事にお問い合わせ、面談希望いただくには、ログインが必要です。
会員登録は無料です。ぜひこの機会にご登録ください。
[wp-members page="login"]
[wp-members page="register"]

あわせて読みたい